行き来すること

ある要素がある空間をある速度で移動していく時、快感が生じる。移動前、それは鬱積した不安と苛立ちとしてスタートし、同時にある期待が芽生える。移動が開始すると発散と解放感が加速と比例して増加し続ける。移動中はその変化を五感で感じ取り、速度による変容が快感と洞察を生む。これはドロモスコピーと呼ばれる効果である。ドロモスコピーはモータリゼーションによって社会におけるあらゆる移動速度が劇的に加速してから新たに知覚されるようになった現象である。それらは未来派の芸術宣言やそれに追従する数々の作品の中にも、同様に見て取ることができる。移動後は速度とその慣性の減少を肉体で受け止め、現実に着地していく。安堵や回想や達成感が湧き出てくると同時に、内的構造の変化の可能性を得る。自己反省による自己変革の可能性である。環境の変化と刺激が、個体に影響していく。変化は否応無く受け入れざるを得ない。

移動する要素は、時空間のそれぞれどちらか、またはその集合空間、そして主観と外界と相互接続された空間の中で流動的に決定されるが、いずれにしても知覚される一点において顕在化される進行形の現象としての主体である。

空間上、地理上の移動では、距離と時間は安定した平行線を辿る。これは旅や逃避や冒険である。より身体に依存し、意識はより動物的に機能する。

時間の移動では、より内面的な意識の変容と想像上の移動が起こり、距離とはほとんど相関性が見られないか、不安定である。これは絵画や音楽、芸術、催眠である。知覚する主体によってその速度と距離は相対的に異なっている。

それら二つの軸をプロットした時空間中の移動は、それぞれ移動の快感プロセスを同じく辿り、相互に掛け合わされながら、知覚され、変化を促す。

さらにこの適用は個人的な移動に留まらないだろう。家族やグループ、社会といった個人の集合から成る共同体にも同じく当てはまる。

共同体そのものがある点からある点へ移動するとき、それはその構成員に対して、また相対的、客観的立場にある個人や共同体に対しても同様に快感をもたらす。それは上述のように、時空間を問わないあらゆる移動について適用される。またその強度は共同体の状態によって流動的に変化していく。作られたドラマや物語が鑑賞者に対して快感を生じさせる原則の一つとして知られる、想像による補間機能もそこに働くだろう。

移動する主体によるあらゆる表明は、ある移動の前後にその成果や経過として為され、その経過は常に断片として残される。観察者はその断片同士の補間を検証しながら体系化することで、連続的に、循環的に解読と解釈を行っていく。

強固に固定された共同体や個人はシンボルとしてカリスマ性やブランド性を帯び、強い影響力を持つ。しかし、移動の快楽原則からはその固定強度と反比例して遠ざかり、それそのものとしての内的葛藤と進化と退廃のフィードバックを止めるだろう。

コンシューマによって大衆コントロールが経済原理の一つと成った時、共同体は定住を選択することで、巨大化を目指した。人々は誰しもがそれぞれの”城に住む王”になり得る可能性を手に入れ、それに酔い、見倣い始めたことで、消費の力学が生まれたのだ。

"城に住む王"、またはその"城"そのものからは移動によって得られる快感とスリルはもはや失われる。そして、その肥大化する付加価値の適正な管理に追われる余生を過ごすことになる。

一方で、創造する個人のモビリティは、現代において非常に高い水準を獲得しているように思われる。創造する個人=アーティストは現在、ラップトップとSIM端末、LCC、高機能ウェアによって世界中を簡単に行き来することができる。移動による快感はその移動頻度と比例して増加し、それは同時に、アーティストが行き来するロケーションそのものに対しても、到着するエネルギーの伝搬によって影響を及ぼし続ける。

しかし、個人の性質を基盤とした集合体から形成される現代のシーンに目を移すと、それは未だに権威と意図的に設置されたカリスマ中心の城状の構造を基本として存在しているように見える。

シーンそのものが常に地理的にも文化的にも移動もしくは”異導”し、悉く形成・解体される続けることで、ドロモスコピックな快感が創造性の栄養素となって共同体全体に発生し伝播し得るのではないだろうか。地下から地上へ、センターからローカルへ、と常に動き続けることで、個人に端を発し、さらにそれより大きな共同体・シーンへとエネルギーの循環が生み出される。

"城"での停滞は安泰であるかもしれないが、果てしなく退屈である。