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吸収

電波吸収材というものがある。

その名の通り電波を吸収する素材と形状を持つ材料のこと。同じように、音を吸収する吸音材というものもある。

いずれにしても振動、波、つまりエネルギーの伝播を反射させず、そのエネルギーをそれ自体が吸収する性質がある。

これは人工的な素材に限ったことではない。

雪深い地域では、積もった雪が音を吸収し、無響室に近い環境が自然の中に出来上がることがある。また砂漠でも同じく音が砂に吸収され無音状態となることがある。

無音状態では何が聴こえるのか、という話になると、大体引き合いに出されるのがジョンケージの無響室の話。

ここで彼は体内の音を聴いた、と。神経が稼働している高音と心臓が血液を押し流す低音。つまり、人間にとって無音状態はあり得ない、常に音は聴こえているのだ。という。

本当によくある事例として、イベントとかで現代音楽の話になると、ちょっと佐々木敦の本とかを読んだぺダンスティックなオタクおじさんがドヤ顔で解説してくることが散見される。そしてそこから、無響室はICCにあるよ、とか、自分が無響室にはいったときの体験談を語り始めたりする。

さて、電波はというと、発信源の出力が強くなると吸収材の吸収許容量を超え、吸収材が発火して燃えはじめるのである。吸収されてもエネルギー自体がなくなるわけではないので蓄積していくと均衡が破たんする。

この破綻の瞬間というのは音と人体においても同じく適用可能なはずだ。

均衡が崩れる時、関係性とシステムそのものが適応的に変化する。

そしてあのおじさんたちも燃えつきて灰となるのだ。

 

 

 

 

解剖学と情報

人体内部について調べる際、誰でも身近で手に入れることが出来る資料の多くはスケッチ集や図鑑ではないだろうか。

皮下組織、筋骨格について、詳細なスケッチと解説でとても役立つものだ。

しかしあくまでスケッチである。実際の解剖から人の手が加わり、抽象された情報なので、実物と大きくかけ離れている可能性もある。

 

実際の写真や映像で人体内部の構造を調べたい場合、人体解剖の写真や映像が収録された医学専門資料を探せば手に入るが、専門書というのは希少で数十万円するものもあり、なかなか価格も手が届きにくいものではある。

 

インターネット検索で探すことでも、多くの資料が手に入る。しかし、日本語検索だとなかなか質の良い人体の実物を使った解剖解説は出てこない。日本では血や死というものについては、ショッキングだということであまり身近な存在ではない、ということも影響しているとおもうが(中東や東南アジアのテレビニュースだと、事故った細切れの遺体がふつうに映っていたりする)、日本語で書かれている充実した資料にはほとんど当たることがない。

 

当然だが、英語で検索するとそのあたりのフィルタがとれて、かなり鮮明な解剖資料にアクセスすることが出来る。多くはアメリカの医学部でもちいられる医学専門資料である。解剖学のテキストや映像資料で紹介される観察対象の遺体は、腐敗を防ぐ処理をされ保存された遺体を用いられているようで、筋肉や血管も血液が抜け、薄いクリーム色から灰色になっており、血管や神経、筋の構造はじっくりと的確に観察することが出来る。

しかし当然ながら死体なので、動きや反応のある生体からはだいぶ差がある。とくに神経や筋の反射や血流の様子、内臓の動きを見ることはできない。

これは人体の不思議展のようなミュージアムものでも同様である。

 

生体について観察したい場合、外科手術の記録資料を探すと多く手に入れることが出来る。これも英語で検索しないと良い資料は出てこない。骨折や内臓の手術、脳外科手術、歯科など、患者が麻酔されているとはいえ、生きた人体の内部を垣間見ることが出来る。しかし、完全にテキストや流れのある映像資料としてパッケージされているわけではないので、スナップ的で断片的なものが多く、なかなかここが見たい、というところが見れない。解剖用の資料で構造を詳しく確認し、その部位に関して外科手術の資料で生きている状態を少しでも見つけて補完する、という感じだろうか。

 

現代社会では、生きた人間を麻酔もなしにそのまま解剖していくような行為は残酷で非人道的であるとして許されていない。しかし純粋な人体に対する好奇心や探究心としては、そうした実験をしてみたい、という気持ちを持つ人間もいるだろうと想像できる。

実際かつて第二次大戦中、旧日本軍の731部隊ナチスドイツではそうした生体実験を行っていたとされており、その調査結果が残されている。

また現代でも、紛争戦争地域や、闇社会に突入してみればそうした行為が可能かもしれないが、死の危険や自分も苦痛を味わうことになるリスクは大きい。

テロ集団やマフィアが関わっている殺人映像には、生きた人間を切り刻んで拷問にかけたり、あらゆる方法で殺害する様子が収録されているものも存在する。街中で偶然撮影された殺人現場、鉄道人身事故、自殺の様子なども多く確認できる。

人道的な意識や感情を完全に捨ててしまえば、こうした映像というのも貴重な資料となりうる。時に技術の進歩が人間の残酷さの延長にあることは、多くの歴史的事実によって証明されている。

近年は映像記録機器も小型で高性能、低価格になり、インターネットにアップされる映像の画質も格段に向上しているため、かなり手軽に、鮮明な生体情報の記録がすぐに共有される。 その気になれば(リスクを負えば)、それらの情報を元に自分で簡単な外科手術を行うことも可能なのだ。非常時災害時の人命救助にも役立つかもしれない。

人を死に至らしめる方法は同じく生かす方法でもある。

 

情報環境の変化はバイオ革命と同じく、パーソナルなメディカルハック(DIY医学)を生むだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

場の感じ

先日、大掛かりなイベントにライブ出演してきた。

計50組以上の出演者が14時間に渡りm1つの会場に設置された4つのステージでライブを繰り広げるというもの。

しかも出演者はノイズやアンダーグラウンドのアーティストで、当然マネージャーもいなければ金もなく酒癖も性格も大体において異常な、(でも根はいいやつ)という、いわゆる”扱いにくい”人種である。

そうした要素からおのずと当日の事故や大混乱が予想される。死者すら出かねない。

しかしいざ始まってみると、主催者はじめスタッフさんたちの気の利いた対応と進行でスムーズに進んでいった。泥酔者は当然徐々に増えてはいたが、大きな混乱もなく各会場で演奏を見ることができ、とても快適であった。

会場のテクニカルの方々も親切丁寧で、仕事も早く出演者側からすれば自分の準備や演奏に集中でき、とても助かった。

これは主催者のシーンからの人望と、会場のスタッフ力の高さが融合することで、危ない客や異常な出演者たちの”根はいいやつ”な部分を解放させ、いわゆる”いいバイブス”を生むマジックが起きたからなのだとおもう。

それはそれでとてもよかった。

 

しかしまあ、そうした状況というのは一概に良い悪いで言えないことでもある。

アーティストからすると、一般的には劣悪で酷い会場で、無愛想でバカなスタッフ、薬中だらけの客、というような状況であっても、その方がインスピレーションがあって燃えたりすることもある。

客としてもそうゆうところだと、いわゆる逆境カタルシス効果(苦労や困難な状況のほうがそれをバネに快感を得やすくなる心理学的な効果)が生み出され、良い体験が出来たりする。

死者や事故が起きたほうがシーンの中では”伝説”になったりもする。

 

さて、僕はといえば、いろいろな状況でさまざまな性質のことが起きても、それはそれで楽しい派であるので、どっちでも良い。

 

ノイズの聴き方

 

実験音楽やノイズ音楽はうるさいし気持ち悪いし意味が分からないので、聴かないという意見をたまに聞くことがある。たとえばこういったもの↓

www.youtube.com

そしてこうゆうもの↓

www.youtube.com

 

メロディもリズムもないし、詩とかもないそうしたジャンルの音楽は、たしかに現代人にとって音楽として楽しみにくい部分も多分にあるだろう。

でも、少し聴き方を変えると意外と楽しめるかもしれない、といういくつかの方法を提案します。

 

1、小さい音で聴く

ノイズ音楽が演奏されるイベントでライブを見たことがある人は経験していることだが、大体において爆音でプレイされる。音がデカくてうるさいほど良いとされていることが多い。耳栓しているお客さんもいる。

カレーは辛いほどうまい、とか、ラーメンで言えば二郎とかいうものに近いのかもしれない。

音源を家でスピーカーで聴いたり、イヤホンでプレイヤーから聴いたりするとき、

せっかくそうゆう装置には音量調整機能がついていることがし、音量を絞って小さい音で流してみると良い。音源作った人は爆音で聴いてほしいと思っている(Play it loud とか書いてある音源もよくある) ことだろうが、手に入れてしまえばもはやそれはどうでも良いことである。

爆音では気付かない意外と繊細な音の表情が見えたり、かわいく聴こえたりもする。恐竜もちいさければかわいく見える。

音が小さすぎると周囲の雑音に紛れて音を流していることを普通に忘れてたりするので、作業用BGMとして使えたりするのでは、と音響心理学的側面から予想することも出来る。

 

2、天気のいい過ごしやすい日に自然豊かな場所で聴く。

ノイズのイベントはだいたいひどく煙っていて薄暗い、陰気な会場で行われる。ギャラリーや教会、音大のホールのような整備されたところで行われることもあるが、それはそれで堅苦しい雰囲気がある。ハードコアやバンドもの、DJイベントなんかになると、客層も怖そうだしなんとなく危なくなってくる。

またノイズ音楽のレコードやカセット、雑誌などのイメージは、過激でグロテスクものが多かったり、精神の異常性を強調したものが多かったりもするので、先入観でそうゆう環境や心境で聴くものだと思い込んでしまっていることもある。

しかし、プレイヤーに音源を入れて、天気のいい過ごしやすい日に自然豊かな場所、たとえば山とかビーチとか、避暑地、軽井沢、葉山、ハワイ、サイパン、ソーサリト、などで聴いてみるとまた違った雰囲気で聴こえてきて新鮮な世界観を味わえる。

これはマルチモーダルや知覚心理学などでいろいろと実験されている感覚入力のへんかによる印象変化というところで語られているようなことでもある。

ビーチだからといってジャックジョンソンや何とかレゲエばかり聴く必要はないし、タバコと酒にまみれながらでなければノイズを聴いてはいけないわけではないので、いろんな環境でいろんな音楽を組み合わせて聴いてみるとよいかもしれません。

 

 

他にもいろいろありますが、参考までに。

 

 

 

便利さとは

腕時計を買った。CASIOのAE-1200WH-1Bというモデル。

いわゆるチプカシというもので、2,500円くらいで防水かつ10年のバッテリー持続、

世界時計の機能があり、各地の時間に切り替えることが出来る。

 

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フェスやツアーなどで海外を移動することよくあるので、便利である。

コレクターや高級時計指向でもないので、これで十分、という感じ。

 

しかしなぜ、この盛大なスマフォの時代、さらにはスマートウォッチ、アップルウォッチ、ウェアラブルデバイスの時代に、わざわざ腕時計なのか。

時間や曜日なんてiPhoneみればすぐに確認できるし、世界時計だって細かく表示できる。

まあそれはそうなのだが、最近iPhoneやらタブレットの画面をみるのが嫌になってきて、わざわざポケットから端末を取り出して電源ボタンおして、ついでにメールもみて、という作業が面倒になってしまった。

 

それまでは、腕になにか付けているのが邪魔だったので腕時計はしていなかったのだが、いまやあのスマフォ画面を、アイコンがならんでスクロールしていく画面を完全に見飽きていて、あれ見るくらいなら腕に邪魔なものついてたほうがマシだな、という気がしてきたのだ。

 

時間や曜日はまあ、見なくてはいけないことが多い。社会で仕事をしているとどうしても時間を見る必要がある場面に出くわす。本当は時間とかは気にしたくないのだが、仕方がない。

 

あと、僕は時計は右腕に着けます。

左腕だと変なかんじがします。

 

 

 

温室

飽きてきたのである。

とにかく、MacからiTunesSoundcloudyoutubeやmixcloudのサウンドが出てきて、それをモニタースピーカーで聴く、という環境に。

ハイレゾでも同じ。

コンピュータからインターフェースを通じて出てくる音に飽きてしまったのだ。耳がこれらの音を拒否しだした。

 

ここでよみがえってくるひとつの記憶がある(急に)。

イチゴを栽培している温室(ビニールハウス)のなかで、祖父と祖母が農作業をしている。20m×5m×3mくらいの大きさ。外気は冷たい木枯しだが、この膜の中は蒸した空気とまとわりつく湿度に守られている。

半透明ビニールと鉄パイプで組まれた温室は、ミニマルで未来を空想させるテクスチャと構造を持ち、暇を持て余した少年にとってはSFのVR空間となっていた。空気さえも管理された、まるで宇宙船の中だ。

そこでの農作業の傍ら、温室の隅に置かれたラジカセからラジオが聴こえている。ニュース、天気、CM。

少年の頭の中では、この音は通信機で、地球からのしんごうをじゅしんしている・・という設定だ。しゅつどうの合図はまだか。

 

音楽はふたたび管理されすぎてしまった。

かつてはコンサートホールと権力に。そしてメディアと資本に。いまはインターネットと情報に。

イチゴは温室で管理され、その傍で少年が遊ぶ。

どこかその膜の閉鎖空間の片隅に、音とともに、新しい遊び方、聴き方を求めている少年が、ワクワクしながらしゃがんでいる。

 

 

 

音楽と地面

音楽と地面はよく似ている。

足元を覗いてみる。

繰り返すパターンと均質な素材でできた面は、効率とテクスチャが際立つ。

始点と終点までがあらかじめ設定された直線に沿って描かれる。

複雑でランダムなパターンと混在した面は、過剰さとカタルシスに支配される。

どこからか着地し、目的もなく動き回る。

 

それらがある割合で混在して様々な面を形作る。認知が時間軸を生む。

表面での、表"状"。それは境界が顕在した姿だ。

境界には、それを取り巻く集合空間がぶつかりあい、摩擦し合うその経過が一時的に現れてくる。

音楽も地面も、人がそこにいることによって、覗かれる世界の一部である。