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リリースということ

とにかくなんでも、日々何か作ったものをまとめ、世間に公開する。完璧でなくても、自分が納得していたらそれでいい。臆することなく晒す。そうすると溜まっていたカルマが燃焼する。昇華や成仏と言ってもいいかもしれない。

自らの分身として形造られた作品が、一人でに人々と触れ合い、縁を生み出す。

生活の中の混乱や、迷いや悩み、後悔や罪が染み込んだ作品が、公開され、縁を通じて、見知らぬ誰かの”何か”になっていく。

この伝達変換プロセスにより、自らの中に滞っていたカルマが外へと流れ出し、その結果自らを救うことになる。

階層

深いところに行く、というより、初めからある領域のどこか深いところにいて、別の領域と接している境界線に近付き、今いる領域のより浅いところにへ浮上する、というイメージ

余力

ジャンクフードは贅沢品である.

嗜好品も同じく,安物の酒,無駄にふかすタバコ,レジャードラッグもそうかもしれない.

油分と塩分の塊,合成糖類にカフェイン,ニコチン,自律神経を無視した過活動.

これらは身体と精神の余剰によって消化されるものだ.余裕がないときには楽しめない.それどころか,ときには全く持って受け付けない.

日頃から身体と精神の中にそうした余裕を残せるよう,ある程度節制して鍛えておかないと,こうした”贅沢”はできない.

手間のかかった旨いものはいつ摂取しても旨い.身体に余裕がなくても,栄養となって満足を与えてくれる.作り手の経験と知識と技術が,身体と精神の方に合わせて成型してくれているからだ.家庭での時間をかけた料理や優秀なシェフのいるレストランでのオーダー,オーガニックやらブランドやら.

 

無駄,ジャンクは贅沢であり,非日常を埋め尽くす.

 

夜通し不健康な地下パーティで,ランダムな出会いや貴重で特別な経験をしたければ,それを吸収できる器と体力が必要なのだ.朝方のシメのラーメンで心地よい眠気にもたれて夢見ごごちでベッドに入るには,臓器と神経がタフである必要がある.

そうした”贅沢”は,気をつけなければときに病気の原因となって,ついにはコカコーラすら飲めなくなる.

余剰のための余力を残すことができているのは,自らの生活がコントロールできていて,心身が充実している証拠なのだ.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

予言者

医師から余命1カ月と告げられたガン患者がちょうどその1か月後に亡くなった。

大体どんなストーリーでも、予言者が現れた時にはもう遅い。

彼は余命を告げられた後、末期病棟に移り病室で山のように積まれた漫画を読んで過ごしていた。

死ぬことが分かったからと言って、体は動かない、行ってみたかったところに行ったり、やり残したことをやれる余力はない。食べたかったものを食べたくても、臓器がすべて壊れている。会いたかった人に会いに行く体力はもうない。

病室でひとり、眼を閉じたら二度と起きないかもしれないその死の際で、残された僅かな人生で、やれることなど殆どないのかもしれない。

あの世への待合室で、どう暇をつぶすか。

のんびり考えようにも、予言者が現れて時にはもう遅いのだ。

 

 

パラレル

33歳、男性、地方公務員、既婚、1歳と2歳の子供がいて、持ち家に住む。

両親ともに教員の家庭で不自由なく育つ。

中高学生時代は成績優秀、スポーツを好み、性格も安定していて、学生や教員からの人望もあった。

高校卒業後10代後半から認定難病を発症。治療を続けていた。

都内の大学卒業後地元で公務員となり、仕事を続けていた。

 

32歳のとき末期ガンであることが判明。発覚した時には複数の臓器に転移しており、手の施しようがない、と言われていた。それまでの検査では見つからなかった特殊な症状だった。

 

望みをかけて抗がん剤治療を開始したが、症状は悪化、半年で中止。その後は進行を見ながら療養していた。

 

33歳、家族との旅行先で倒れ救急搬送。2度の緊急手術の後、担当医師から余命1カ月と伝えられる。

 共通の知り合いから重症の事実を伝えられ、見舞いに行く。

 

もうあとはその時が来るのを待つだけだ、と病床で語っていた。

 

その後、術後の容体が安定し、旅行先で搬送された病院から、自宅近くの病院へ転院。終末期治療へ入る。

 

彼が余命を告げられた時期からそろそろ1カ月が過ぎようとしている。

 

深夜、伸びた手の爪を切りながら、ふと彼の人生を思った。

 

 

行き来すること

ある要素がある空間をある速度で移動していく時、快感が生じる。移動前、それは鬱積した不安と苛立ちとしてスタートし、同時にある期待が芽生える。移動が開始すると発散と解放感が加速と比例して増加し続ける。移動中はその変化を五感で感じ取り、速度による変容が快感と洞察を生む。これはドロモスコピーと呼ばれる効果である。ドロモスコピーはモータリゼーションによって社会におけるあらゆる移動速度が劇的に加速してから新たに知覚されるようになった現象である。それらは未来派の芸術宣言やそれに追従する数々の作品の中にも、同様に見て取ることができる。移動後は速度とその慣性の減少を肉体で受け止め、現実に着地していく。安堵や回想や達成感が湧き出てくると同時に、内的構造の変化の可能性を得る。自己反省による自己変革の可能性である。環境の変化と刺激が、個体に影響していく。変化は否応無く受け入れざるを得ない。

移動する要素は、時空間のそれぞれどちらか、またはその集合空間、そして主観と外界と相互接続された空間の中で流動的に決定されるが、いずれにしても知覚される一点において顕在化される進行形の現象としての主体である。

空間上、地理上の移動では、距離と時間は安定した平行線を辿る。これは旅や逃避や冒険である。より身体に依存し、意識はより動物的に機能する。

時間の移動では、より内面的な意識の変容と想像上の移動が起こり、距離とはほとんど相関性が見られないか、不安定である。これは絵画や音楽、芸術、催眠である。知覚する主体によってその速度と距離は相対的に異なっている。

それら二つの軸をプロットした時空間中の移動は、それぞれ移動の快感プロセスを同じく辿り、相互に掛け合わされながら、知覚され、変化を促す。

さらにこの適用は個人的な移動に留まらないだろう。家族やグループ、社会といった個人の集合から成る共同体にも同じく当てはまる。

共同体そのものがある点からある点へ移動するとき、それはその構成員に対して、また相対的、客観的立場にある個人や共同体に対しても同様に快感をもたらす。それは上述のように、時空間を問わないあらゆる移動について適用される。またその強度は共同体の状態によって流動的に変化していく。作られたドラマや物語が鑑賞者に対して快感を生じさせる原則の一つとして知られる、想像による補間機能もそこに働くだろう。

移動する主体によるあらゆる表明は、ある移動の前後にその成果や経過として為され、その経過は常に断片として残される。観察者はその断片同士の補間を検証しながら体系化することで、連続的に、循環的に解読と解釈を行っていく。

強固に固定された共同体や個人はシンボルとしてカリスマ性やブランド性を帯び、強い影響力を持つ。しかし、移動の快楽原則からはその固定強度と反比例して遠ざかり、それそのものとしての内的葛藤と進化と退廃のフィードバックを止めるだろう。

コンシューマによって大衆コントロールが経済原理の一つと成った時、共同体は定住を選択することで、巨大化を目指した。人々は誰しもがそれぞれの”城に住む王”になり得る可能性を手に入れ、それに酔い、見倣い始めたことで、消費の力学が生まれたのだ。

"城に住む王"、またはその"城"そのものからは移動によって得られる快感とスリルはもはや失われる。そして、その肥大化する付加価値の適正な管理に追われる余生を過ごすことになる。

一方で、創造する個人のモビリティは、現代において非常に高い水準を獲得しているように思われる。創造する個人=アーティストは現在、ラップトップとSIM端末、LCC、高機能ウェアによって世界中を簡単に行き来することができる。移動による快感はその移動頻度と比例して増加し、それは同時に、アーティストが行き来するロケーションそのものに対しても、到着するエネルギーの伝搬によって影響を及ぼし続ける。

しかし、個人の性質を基盤とした集合体から形成される現代のシーンに目を移すと、それは未だに権威と意図的に設置されたカリスマ中心の城状の構造を基本として存在しているように見える。

シーンそのものが常に地理的にも文化的にも移動もしくは”異導”し、悉く形成・解体される続けることで、ドロモスコピックな快感が創造性の栄養素となって共同体全体に発生し伝播し得るのではないだろうか。地下から地上へ、センターからローカルへ、と常に動き続けることで、個人に端を発し、さらにそれより大きな共同体・シーンへとエネルギーの循環が生み出される。

"城"での停滞は安泰であるかもしれないが、果てしなく退屈である。 

 

 

時代の様相

圧政や飢餓の時代には文化が停滞するというのは事実だろうか。

そうした時代にこそ生まれ得る文化もあるはずであり、独自の価値が見出されるべきだ。

ルネサンス以前以後は頽廃であると断ずる現代の批評に幾つか出会った。

社会や個人における貧しさと不自由の中で生まれるすべて、もしくは何か、が無価値であるという確証は、カウンターとしての反芸術が社会に対する有効であるとすでに実証された現代において無力な基準である。